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思い出の日光急行電鉄
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思い出の日光急行電鉄
対日光輸送鉄路の三つ巴合戦

現在の日光急行線・日光鬼怒川線を運行していた『日光急行電鉄』を、嘗ての従業者が振り返ります。

日光急行電鉄について



△日光急行電鉄で導入された最後の通勤電車、5000系。
新系列1000系に置き換えられた後、開業を控えた愛姫シティーラインに全車両が譲渡された。

 日光急行電鉄は、1930年4月21日に会社を設立後、2年後の1932年8月15日に最初の区間(日急上野〜川越大塚)が開業、その後も延伸開業が続けられてゆき、開業5年目を目前に控えた1937年3月20日に、当初より開業目的としてあげていた最後の建設区間であった日急栃木〜日光東和間が開業。その後、途中の日急大沢から分岐し、日光鬼怒川温泉までを結ぶ日光鬼怒川線が1939年11月10日に開業。 会社設立10年目、1940年5月26日には当初のターミナルであった日急上野より延伸、日急浅草まで延伸開業し、現在の路線が全て開業している。
 それから半世紀余りは、対日光観光客輸送で東武鉄道及び国鉄との三つ巴合戦を演じることになる。やがて戦いに敗北し、次第に経営悪化が明白になってゆく。1999年4月7日に自主再建を断念してしまい、総馬電鉄を引き受け先に資産譲渡を実施し、営業路線などは総馬電鉄へと継承され、路線は総馬電鉄日光急行線・日光鬼怒川線となった。やがて会社としての日光急行電鉄は清算され、その姿を消している。

 総馬電鉄の路線となった今でも、京上線系統及び成田空港線を管理する総馬電鉄事業局とは別の組織である『日光急行線事業局』によって運営が行われており、別の私鉄だったという面影は色濃く残る。それを証拠に、今でも日光急行線及び日光鬼怒川線の駅名には『日急○○』という名の駅が多く、駅名改称には至ってない。

日光急行電鉄の特急列車




△日光急行電鉄時代より使われた名称である『二荒(ふたあら)』と『皇海(こうがい)』の幕。

 日光急行電鉄時代は、対日光観光客輸送で東武鉄道及び国鉄との三つ巴合戦を演じていたことから、特急運転に力を入れていた。日光方面の特急を『二荒(ふたあら)』 、鬼怒川温泉方面の特急を『皇海(こうがい)』の名称で走らせていた。

 終戦後より復興が進んで行く中、日光急行電鉄も特急の運転を再開して行くが、それに使用されたのは通勤車に毛が生えた程度のグレードアップを施されたような車両であり、到底勝負になるはずも無かった。やがて、高度経済成長期に入り、日光への観光客輸送が全盛期を迎えると、日光急行電鉄もその波に乗り、新型特急電車の投入を進めた。後期、最もグレード高い車両が導入された。それが700系電車である。


△日光急行電鉄700系特急車。7両編成(登場時の編成)はこちらより

△日光急行電鉄700系特急車(パノラマ先頭車)。6両編成(パノラマ先頭車連結)はこちらより

 全盛期に導入された特急用電車である700系。当初は高運転台タイプの先頭車のみの先頭車で統一、7両編成で運転されていた。その後、サービスアップ策としてパノラマ先頭車の連結を検討。編成を6両編成とし、7連の真ん中にあった中間付随車1両を外し、この車両をパノラマ先頭車に改造する工事が行われた。完成次第に6連化されていた700系編成の日光東和・日光鬼怒川温泉方に連結され、交替に編成から外された先頭車は廃車された。これは当時、7両編成では輸送力が過剰気味になったことから、編成短縮を行うのにあわせたサービスアップの一環でもあった。
 編成の一方の先頭車をパノラマ先頭車にしてサービスアップなどを図った700系であったが、1998年に最後の編成が置き換えられて形式消滅した。車両が現存しない今でも、その人気は以後に導入された特急電車より高い。

 最後まで人気車両の座を他の車両に譲らなかった700系であったが、次第に老朽化が進み、そして特急用車両を急行にも使用開始するようになったことから、新たに特急用車両を増備することを決定する。老朽化の乏しい700系の一部編成置き換え及び増発用として誕生したのが800系特急型電車である。


△日光急行電鉄800系特急電車。6両編成はこちらより
 これまでの特急+通勤電車を足して2で割ったような構造。この車両が主力になった地点で有料特急を廃止し無料特急化。朝夕ラッシュ時に座席指定制列車を運転する計画で製作された。乗降のしやすさなどはよかったものの、ただ座席が多くて扉の少ない通勤電車のような特急電車だったため、観光客はおろか、地元の乗客にも不評を買ってしまった。結局、6両編成6本が製作された地点で製造終了。当初の目的であった無料特急化は行われることはなかった。この車両の評価を乗客曰く『東武スペーシアに負けを認めて、白旗を上げた』と酷評されてしまった。恐らく、急行用として登場していたのであれば、評価は悪くなかったのかもしれない。日光急行電鉄はここで足を大きく踏み外してしまったと言われている。
 話題から外れるが、800系は比較的新しい車両であったのにもかかわらず、全車が総馬電鉄に移行したわけではない。前期に製造された3本18両は日光急行電鉄時代に除籍され、秘密裏に搬出されていった。その後、この車両がどこへ行ったのかは依然として不明である。


△最末期に導入された特急電車である900系。

△最末期に導入された特急電車である950系(デビュー当初は500系。)
 せっかくの新世代特急電車であった800系が空振りに終わり、逆に乗客からの評判を低下させてしまった日光急行電鉄。乗客の減少を少しでも食い止めるため、最後の悪あがきとして『イメージアップ』を図ることになった。既に一定数の新車両を購入するだけの予算が無く、代わりに中古車両を一定数増備することになった。そして増備されたのが500系(後に950系と改番。元西武鉄道5000系レッドアローの車体と183系電車廃車発生部品を組み合わせて出来た車両)であり、6連3本がデビューした。時を同じくして、今度は車両ごとの譲渡となった、比較的程度のよい183系特急型電車を改造した900系がデビュー。あわせて6連7本42両が、老朽化の進んでいた700系列などを置き換えた。結局、日光急行電鉄は乗客数の減少を抑えることは出来ず、最終的に会社は経営破たんしたのと同じ状態となってしまった。結果的に『日光急行電鉄滅亡の象徴』と言われてしまった。中には『懐かしのレッドアローに乗れる』という評判を聞いて、950系充当の特急に乗車された乗客も少なからずいらっしゃったようですが。
 総馬電鉄となった後、日光急行線大改革が行われ、それの原動力となって最後の活躍。7200系に全てを託して退役した。現在でも900系及び950系は6連各1本が静態保存されている。

日光急行電鉄の通勤電車


 日光急行電鉄は、むしろ日光及び鬼怒川温泉への観光客輸送よりは、地域の足として利用されていた鉄道であるとの見解も強い。通勤電車も相応に速達性を重視した列車も設定し、更には東松山駅で総馬電鉄と接続できることを最大限に生かして連絡性の向上にも力を入れていた。総馬電鉄日光急行線となった今でも、地域住民の足として愛され続けている。


△日光急行電鉄4000系電車。6両編成はこちらより
 日光急行電鉄初の20m4扉、両扉式を採用して誕生した4000系。画像は晩年の姿だが、登場時は700系特急形電車と同じ色をしていた。6両編成及び4両編成が各10本ずつ、計20本あまりが製造された。


△日光急行電鉄4500系電車。6両編成はこちらより
 4000系のマイナーチェンジ車である4500系。同時に製造されていた京神急行電鉄5000系電車と同じような設計で、各部に共通点が見られている。製造された数はこの車両が最も多く、4連20本、6連20本、8連15本が製造された。8両編成が製造されたのは、主に都市部を中心に輸送力不足が問題視されていたからといわれ、2編成をつなげて8両及び10両編成を作るより、8両編成で組んでしまうほうが効率がいいからとされている。ただ、8両編成の方は日急浅草〜東松山・日急宇都宮での運行に限られていた。


△日光急行電鉄5000系電車。6両編成はこちらより
 4000系電車の老朽化に際し、新たな車両の計画が行われ、誕生した5000系電車。総馬電鉄3500系・3600系と共通設計とし、東松山駅連絡線を通して相互直通運転を考慮していたとされる。最もちょうどいいとされた6両編成のみとし、計20本が製造された。この特性を生かすように、行き先方向幕には総馬電鉄の行き先表示も準備され、時折は総馬電鉄へ貸し出され、京上線系統で運行されたこともあった。逆に総馬電鉄3600系を借入れ、普通列車の運行に使用されたこともある。相互直通運転という両社の計画に沿って製造されたが、最後まで相互直通運転に使用されることは無かったが、相互協力の観点では互いに貸し借りが出来る電車として重宝がされていたようである。
 総馬電鉄移行後も活躍を続け、最後まで全車が健在であった5000系だったが、やがて引導が渡され、日光急行線を去ることになった。しかし廃車とはならず、開業を控えていた『愛姫シティーライン』へと全車が譲渡され、AL-0系電車として現在も全車両が活躍を続けている。

日光急行電鉄の終焉〜そして、現在


 1999年4月7日、日光急行電鉄から総馬電鉄日光急行線・日光鬼怒川線に移行することになった。最後まで残ったのは4000系の4連及び6連が5本ずつ、4500系は4連20本と6連10本、5000系が6連20本全車であった。これに特急車が6連10本(800系6連3本、900系6連4本、950系6連3本)が総馬電鉄に引き継がれ、翌4月8日より総馬電鉄車両となり、引き続き日光急行線で活躍を続けることとなった。やがて日光急行線大革命により、特急車は7200系、通勤電車は1000系に逐次置き換えが進んでいった。やがて置き換えも完了する頃となり、現役車両の中では最後まで日光急行電鉄の面影を残す電車となった5000系は、完全に置き換えられるまで20本全てが健在であった。
 やがて5000系が去ってゆき、特急車が7200系、通勤電車は1000系で統一。日光方面の特急が『陽炎(かげろう)』、急行が『不知火(しらぬい)』、日光鬼怒川温泉方面の特急が『あかなぎ』、急行が『りゅうず』と改称され、運転面で日光急行電鉄は消滅してしまった。しかし、現在でも改称せずに残されている駅名、地域住民に親しまれている俗称『日急』など、多くの面で日光急行電鉄は生き続けているのである。


△現在の日光急行線・日光鬼怒川線を走る総馬電鉄7200系特急型電車。


△現在の日光急行線・日光鬼怒川線を走る総馬電鉄1000系通勤型電車(日光急行線仕様)。

 


著者:相川 愛美
(現 総馬電鉄日光急行線運転士)


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