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2つの救世主
日光急行電鉄900系オレンジライナー・レッドアロー

嘗て、総馬電鉄日光急行線・日光鬼怒川線が『日光急行電鉄』であった時代より、救世主として名を残した車両があります。
今回は、過去帳入りした現在も静態保存されている、この車両を特集したいと思います。

□導入背景



▲当時の主力特急車両(800系)(6両編成の画像がご覧いただけます)
良く言えば『汎用的』、悪く言えば『相応ではない』『東武鉄道に負けを認めた』と言われる始末でした。

 1990年代の日光急行電鉄は、東武鉄道は無論、1987年に国鉄が分割民営化されて誕生したJR東日本にも大きく遅れをとっていた。東武鉄道はこの頃、1720系デラックスロマンスカーから100系スペーシアにバトンタッチしていたが、日光急行電鉄は汎用性を重視した特急車両である800系を導入した以外は、戦後の復興が終わり、戦前の体力へと戻った際に投入した特急車両をそのまま使っており、老朽化が進んでいた。そんなこんなで、老朽化が著しい6両編成36両の特急車両の置き換えが急務となった。しかし、当時の日光急行電鉄は新車を作れるほどの予算を計上できなかった。そんな中で即急な特急車両増備に迫られたため、中古車両の購入を決定することになる。

□レッドアロー



▲元西武鉄道5000系レッドアロー(6両編成の画像がご覧いただけます)
日光急行電鉄では500系及び900系50番台として活躍。

 第一候補となったのは、その頃に引退が始まった西武鉄道5000系レッドアローだった。すぐさま西武鉄道本社へと出向き、そして所沢車両工場にあったレッドアローの実車を見た上で売却を要請するのだが、そこでひとつの問題が発生した。
「車体のみなら売ります」
 西武鉄道からの返答は、足回りのほとんどは後継車両である10000系ニューレッドアローに再利用するとのことで、売却できるのは車体と一部の機器だけであるという回答だったのだ。何としてでも特急車両増備に目処をつけたい、そして仕様的にも申し分のない初代レッドアローを何とか導入したい日光急行電鉄であったが、購入できるのは車体だけという面で、完全に面食らう結果となった。
 しかし、交渉開始から10日後、機器に関してはJR東日本から部品を譲り受けることが可能となり、所定数の部品確保が可能となったことから、すぐさま購入を決断し、後々に廃車される3編成18両分の車体購入の契約を結んだ。
 まずは1994年11月末日、陸送によって183系電車の廃車発生部品が4両分、そして西武レッドアロー(5509For5511F)の車体が1編成6両分、日光急行電鉄の車両工場へと運び込まれた。先に調達することになったもう1編成分の車体は、旧工場を転用した車庫に一時的に保管、1編成の組み立てを待って車両工場へ搬入されることとなった。後を追うように中間車両の部品2両分が追加購入され、同様の改造工事が行われた。
 1編成目の車両の改造は翌1995年3月にまずは4両が完了、追って5月に中間車2両の改造が完了し、入念な走行試験と試運転を実施して、万全な状態で8月7日より使用開始されることとなった。その後、同じく183系電車の部品の購入と平行して、保管されていた車体を車両工場へ搬入、6月より組立・改造工事に着手し、12月に完成した。この車両は試運転の後に翌年1996年3月5日より営業運転を開始している。
 その後、3編成目が1996年8月にデビューし、6両編成3本、計18両が揃った。

□平行増備



▲元JR東日本183系(6両編成の画像がご覧いただけます)
日光急行電鉄では900系として活躍。救世主としてレッドアローと共に名を残した。

 並行するように183系電車そのものも購入し、元西武レッドアローこと500系が8月に6両編成1本のみでデビューする2ヶ月前の6月、6両編成1本が入線した。こちらは車上機器の取り付けなど、施工された工事は簡単なものであったため、試運転期間を挟んで10月25日に900系としてデビューした。
その後もJR東日本からの引退と合わせて購入、増備が行われ、最終的には6両編成4本、24両が日光急行電鉄900系となって活躍を続けるのであった。

□期待と現状


 足回りなどもほとんど同じことから、形式は元183系に合わせて900系とし、0番台を元JR183系、50番台を元西武5000系に付番、通称として元183系である0番台にはオレンジライナー、元西武5000系である50番台についてはレッドアローの愛称がそのまま使われた。何度かの試運転を実施した上で投入され、日光急行電鉄の特急列車の一翼を担うべく、活躍を開始することになる。
 しかしながら、ボロをボロで置き換えるとはいったもので、とりあえずの近代化を図ることはできたものの、東武鉄道などと比べれば見劣りがするのは事実であった。やはり、浅草〜日光への移動は東武鉄道であり、東武100系スペーシアこそ日光特急だったのである。その牙城を崩すことは、この車両増備では不可能だったのである。そして全車両が揃ってから1年も経たない1999年4月7日、日光急行電鉄は自主再建を断念。鉄道資産一切を総馬電鉄へと譲り、会社清算する道を選んだのである。

□総馬電鉄となってから引退まで




▲(上)900系。(下)900系50番台 引退した今でも、救世主として名が高い。

 総馬電鉄に引き継がれた後も継続して運転されていたが、やはり世間から見れば見劣りしているのは否めなく、2010年より本格的に置き換えられることが決定。特急の運転が休止され、代わりに設定された急行列車の専用車両となって活躍を続け、後継の特急車へと置き換えられるまで最後の活躍が続けられた。2013年12月には既に元183系1本(901編成)、元西武5000系(953編成)1本のみとなり、それら車両も定期運用からは離脱し、臨時列車や団体列車に使用されるのみとなっていた。
 年が変わった2014年3月、2本の900系は最後に臨時特急『陽命』に使用されて活躍、3月31日にさよなら運転を行った後に、引退した。

 今でも車庫には2編成の900系が静態保存され、生まれ変わった日光急行線と、そこを走る後輩車両を見守り続けている。自社発注車両ではなく、譲渡車両である900系が保存対象車両になったのかは定かではないが、それでも長らくの間、まともな特急車両として活躍していた車両がこの900系だけであったことも理由なのかもしれない。

□年表


1995年8月7日:500系電車(元西武5000系)運転開始。当時は1編成しかなく、暫定的に専用の運用を設け、検査や修理の際には在来特急車が代走。
1995年10月25日:900系電車(元JR183系)6両編成1本運転開始。500系と運用を共通化し、交代で使用されることとなった。
1995年10月26日:900系電車4両編成が運転開始。1編成しかないことから当面は臨時列車や、日光鬼怒川線折り返し列車に従事することとなる。
1996年3月5日:500系電車2編成目、900系4両編成の2本目が運転を開始。
1996年4月21日:900系電車6両編成の2本目が運転開始。500系と900系とで専用の運用を別々に設け、運転を開始。
1996年8月18日:500系電車3編成目が運転を開始。2本稼動、1本予備の体制となり、500系使用列車が大幅に増発された。
1996年4月27日:形式変更を実施し、500系を900系50番台に改番。
1996年10月26日:JR東日本から189系中間電動車ユニット購入。4両編成へ組み込み、全編成が6両編成となった。日光鬼怒川線折り返し列車の運行を終了。
1999年4月7日:経営悪化・自主再建の目処が立たなくなり、総馬電鉄を引き受け先に資産譲渡を実施して日光急行電鉄を清算。
1999年4月8日:総馬電鉄日光急行線・日光鬼怒川線となる。形式もそのままに総馬電鉄900系として継承される。
2013年12月16日:900系定期運用終了。
2014年3月1日:臨時特急『陽明』として最後の運行開始。
2014年3月31日:ラストラン。

現在は旧日光急行電鉄の車両工場跡の倉庫にて6両編成2本が静態保存。

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